田村寺の歴史
寺伝によれば、往昔に遡り平安初期の武将、坂上田村麿呂公(758〜811)が東征の砌、鈴鹿の山神の威力を得て征業成就し、この松原の地に安らぎの跡を残されたといわれる。
江戸時代末期(1850〜)に至り、公の霊を弔い草庵を建てたのが当山の始まりと伝えられている。
江戸時代末期(1850〜)に至り、公の霊を弔い草庵を建てたのが当山の始まりと伝えられている。
明治の中頃(1890〜)修行僧、大慈遍照二世の大導師が弘法大師を奉祀して共に公の霊を慰め、信徒と共に厄除大師の恩恵に浴して、大師堂を建立した。
さらに真養大和尚により寺格を整え、弘法山 田村寺と称し、真言宗醍醐派に属することになった。
さらに真養大和尚により寺格を整え、弘法山 田村寺と称し、真言宗醍醐派に属することになった。
寺号は田村麿呂の姓をいただいたと寺伝はいう。松原地区に残る伝承の一つとして、聖武天皇が朝明行宮を営まれた折、村長(むらおさ)の手厚いもてなしを喜ばれ、長の由緒ある「田村」姓を賜ったといわれ、この地区に多い「田村」姓の起こりであると言われている。
昭和五十年(1975)本堂改修時に、天井に檀・信徒の家紋隆昌を祈り家紋が奉納された。
法龍寺の歴史
往昔の由来については不詳だが、江戸時代末頃までこの地に地蔵さんを祀る小堂があり、人々の信仰を集めてきた。
明治時代に入り霊験あらたかな堂守が仏門に帰依され、難病平癒、厄難排除など多くの人を救われた。
明治二十二年(1889)に至り、寺格を整え真言宗醍醐派に属し、今日も諸祈願の参詣者が来られる。
泉福寺の歴史
紀州藩からの寄進により建立された。
本尊不動明王は市の文化財であったが、平成三年三月火災により焼失してしまう。
翌年お堂を再建し現在に至る。
厄除け寺として、厄年を迎えると初午の時には、この地の人々はお参りして厄除け祈祷を受ける習わしがある。
その昔、子供達はここで読み書きを習う寺子屋があった。
その昔、子供達はここで読み書きを習う寺子屋があった。
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